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9月4日(Sat)
- チェックアウト。
旧海軍司令部壕に行く。つくのが早すぎて開いてない。
台風が直撃してるのが気になって一旦那覇空港に行く。まだ並んでたり混乱はないけど、微妙な感じ。
旧海軍司令部壕に戻る。資料館→壕→下の出口。という感じ。
写真は撮らなかったが、味があったな。果たして沖縄に格別の配慮はあったんだろうか。
外出 -> 施設地域 #旧海軍司令部壕
- 白梅の塔。
白梅之塔。
沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日ごとに悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと専科に斃れていった。その場所はほとんど不明である。
また、解散後この地に交代した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一,二十二の両日に亘、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、あるいは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念してしょうわ二十二年一月に建立した。
毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
平成十年六月二十三日
沖縄県第二高等女学校 白梅同窓会
ひめゆりの塔の記読めない文字が多すぎて分からん。
昭和二十年三月二十四日島尻群玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜書となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった。五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は、重病患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし、砲弾をくぐり、*帯をちぎって道しるべとして、ここ摩文仁村に移動した。
南に下がってあとは病院はに*部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に別れて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近かにせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命じられた。翌十九日第三外科の塔は*襲を受け、ガス弾を投げ込まれて地獄**と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき、職員生徒四十名民間人六名も運命を**した。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中さまよひ沖縄最南端の断崖に追いつめられて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全盛との三分の二がこうして最期をとげたのである。
戦争がすんで、二人の眼の行方をたずねていった金城和信*妻によって第三外科壕がさがしあて***。真和志村民の協力により、昭和二十一年四月七日**のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをは**み、霊の*をうけ、平和の減点とする。***は涙と血*(あとは略)