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9月4日(Sat)
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- ひめゆりの塔へ行く。
入り口の碑。
読めない文字が多すぎて分からん。ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四日島尻群玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒二百九十七名は、軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘がはげしくなるにつれて、前線から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風原村一日橋・玉城村糸数にも分室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜書となく力のかぎりをつくして傷病兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった。五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は、重病患者は壕に残し歩ける患者だけをつれて、手を引き肩をかし、砲弾をくぐり、*帯をちぎって道しるべとして、ここ摩文仁村に移動した。
南に下がってあとは病院はに*部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科に別れて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近かにせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命じられた。翌十九日第三外科の塔は*襲を受け、ガス弾を投げ込まれて地獄**と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき、職員生徒四十名民間人六名も運命を**した。その他の壕にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中さまよひ沖縄最南端の断崖に追いつめられて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全盛との三分の二がこうして最期をとげたのである。
戦争がすんで、二人の眼の行方をたずねていった金城和信*妻によって第三外科壕がさがしあて***。真和志村民の協力により、昭和二十一年四月七日**のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員十六名生徒二百八名の戦没者を合祀して白百合のかおりをは**み、霊の*をうけ、平和の減点とする。***は涙と血*(あとは略)